昭和47年4月23日 朝の御理解       (末永信太郎)

御神訓一
 神は声もなし形も見えず、疑えば限りなし。恐るべし、疑いをされよ。



 はじめから神様を疑う、神様、いわゆる無神論ですね。神様がないという人。かと言うて、んなら、神様があると信じておる人も、また少ない。信じるということは、お道の信心で言う神様を信ずるということは、天地金乃神様という方は、私どもの親だと、親神様として信じる。親の情、子の情を持って交流する、繋がって行くところの神様と信ずる。それを、いよいよ信ずる。いわゆる、絶対信です。
 ところが、信じておるようであって、やはり、不安であったり、心配であったりするということですから、やはりまだ、その、半信半疑ということになりますでしょう。ね。ですから、ただ、(軽震?)の念を持つといったような程度の神様の信じ方。そこで、私どもは神様をいよいよ信じて疑わない、いわゆる、信念の人というかね、確信をもって生活が出けるという生活に入って行くことが、信心生活である。
 神は声もなし、形も見えず、疑えば限りなし。確かにそう、けれども、まあ、だいたいお互いの信心というのが、心配事がある、難儀なことがあるというところから、神様でもおすがりしようということから、神様と言うようになるのです。それで、まあ、おかげを受けますけれども、そのおかげだけでは、やっぱり駄目ですね。段々日にちが経って来るにしたがって、例えば、病気を治して頂いたと言うても、やはり時期が来て治ったっじゃろうというような気が段々して来るようになるんです。
 本当にあん時は不思議なおかげを頂いたと、例えば言うてもです、やはり偶然ということもあるからね、といったようなことになるのです。ですから、もう、本気で神様を信じさせて頂くけいこをね、せにゃいけんです。もう、この辺のところは、だから問題は、そういう姿勢を取るかとらないかということです。
 ただ、おかげを頂くために拝んでおるということ、おかげから神様を信じて来るというのではなくて、ね。私、今朝方、お夢を頂いておった。もう、こんなに、あの、急な坂を上ってるんです。とても、普通では上れそうにもないんですけれども、やっぱ、どうでも上らなければならない。というので、上っておるとです、上っておりますとね、誰か下からこうやって、支えてくれたり押してくれたりする感じなんです。
 後ろを見るけれども、誰って分からんのです。ね。これはね、だから、体験した者でなからなければ分からない。とても、こげな急な坂が上れるもんかと、目にも見えない、形にもない神様を信じれなんて、そんなことを言ったって、信じれれるもんかと言わずにですね、本気で私はその、上ってみようという気にならなきゃいけん。そすとね、これは、だからもう、理屈じゃないですよ。
 例えば、なら皆さんがですね、もう本気で朝参りをさせて頂こうということに本気になりますとね、もう神様は絶対参らせて下さるです。そして、そこにはもう、不思議な不思議な働きを感ずるです。場合によっては、こう揺り起こすようにしてから、直に起こして下さったり、またはお声でです、ね、起こして下さる。これは、皆さんが体験しておる。ね、だから問題は、本気で朝参りをさせて頂こうという気になったらね、目が覚めたら、誰か連れどんがあったなら参ろうちゅうぐらいなこっじゃ駄目です。
 もう絶対、どうでもこれだけは、という気にならなければ。そこにね、もう理屈じゃないです。神様がその時間になると、ちゃんと目を覚まさせて下さる。覚めんなら、それこそ、こう、揺り動かすようにして、あらっ、誰か揺り起こしたかと、誰もいない、そんなことがある。何かけただましいお声がしたからと思って、誰も(おらんだ?)者もないのに、目を覚ましてみると、ちゃっともう、御祈念の時間。または、お参りをする時間ということに、ようにね。問題は、その姿勢を取るか取らないかということだと思うです。
 今朝から、神は声もなし、形も見えない。なるほど、だから、もう疑えば限りがない。けれども、なら本気で、んなら、上ってみようということになって来るとね、いや、上ってみようじゃなくて、上るという気になればですね、もう、その誰かが、こう上ったしこね、こう、下の方からこう、押し上げてくれるような感じがするんです。または、支えてくれておるような感じがする。
 振り向いて見ても、誰もいない。ね。ですから問題は、本気で信心のけいこをさせてもらおう、そして、いよいよ神様を、いわゆる確信の生活、信念の生活。ね。まあ、言うなら安心の生活。そういう天地の親神様にいつも御守護を受けておる、お守りを受けておる。その神様は、もうただ、氏子可愛いの一念だけしかお在りにならないということをです、まあ、段々分からせて頂く。
 なるほど神様じゃなあ、と。なるほど、親神様じゃな、と思わせて頂けるようなです、ね、体験が伴うて来る。その体験を、ただお願いをして、おかげを頂くということはです、ね、本当にあん時はあのような不思議なおかげを頂いたけれども、それが段々、偶然視されたり、ね。それは、だんだん薄いものになって行く。それから私は、もう一つ、これはちょっと場面が違うようでしたけども、高いですね、大きなものを積み上げて、上に段々だんだん上って行かんならんというのです。
 ところが、もう、ずいぶん高くなりましたら、もう、ゆらゆらして、一つひとつ積み上げとるとですから、そん、こうゆらゆらしよっとが、こう(掴みとると?)落ちるような感じがするんですよ。もう、危険を感じたわけです。そしたら、誰かがですね、上れば上るほど、これは締まって行くんだ、と。落ちるのじゃない、締まって行くんだという、誰かが言うんですよ。それも、やっぱ誰も、その声はするけれども、姿はない。とてもとても、普通では上って行けそうにもない。その、積み上げて行く物の上に上がって行く。それが、もう上になればなるほど、こう、ゆらゆらしよると。けれども、その上に、ところが上れば上るほど、これは締まるんだ、締まる仕組みになってるんだという意味のことを、誰かが言ってくれてるんです。
 そこで安心して、そんなら、なんぼでも積み上げて上って行こうと思うておるところで目が覚めた。信心を高めて、段々高度なものにして行かなきゃなりません。ね。けれども、その誰かがですね、いわゆる、声もないと言われるけれども、神は形もない、姿も見えない。例えば、んなら、ここで皆さんが段々信心を進めてお出でで、高めてお出でられます。
 本気でけいこしようと思うから、神様もまた、本気になって下さる。ね。信心が段々高められて行く。ね。そして、なら、これで大丈夫じゃろうかというような、(      )信心に打ち込んで行きよるが、はたして、これでよかじゃろうかと思うような時にです、ね、御取次を一遍お願いをさせて頂いて、御理解を頂く。御理解を頂くと、心に安心が出ける。いわゆる、上れば上るほど、これは締まって行くもんだということは、やっぱ、そういうようなことじゃなかろうかと、こう思う。
 信心を高めて行けば行くほど、そこにです、いわば、言うならば声のない声を聞けれるようになる、と。御教えを頂くと、ね、自分の心に心配がある、不安がある。お参りをして御理解を頂いておると、本当に私一人のために御理解を下さっておるような時がある。そして、心の中に、いよいよやるぞ、いよいよこの信心を進めて行く以外にはないというような、こう決心がついて来るものです。
 ですから、やはり信心は、まあ、これで良いということはありません。限りなく、そういう神様を信じて疑わない力が自分に段々出けて行くということを楽しみに信心させて頂く。だから、実意にならなければおられない。ね。だから、教えを行じなければおられない。ね。そこに、いわば、ね、人格か神格化して来るか、神様へ一歩一歩近づいて行けれるという世界にまで進んで行けれるのです。
 ね、そして答えはどういうことか、どんな場合であっても驚かんで済む信心。どんなことに直面しても、驚かん、慌てんで済む信心。合楽の御信者さん方は非常に耳が肥えておる。もう、本当に、まあ、言うなら信心の素晴らしいことも話を聞いて分かっておる。それが、その、分かっておるだけではいかんのです。けっきょく、ね、それを本気で成就しようとする、本気で上ってみようという気になる心を起こすこと。
 言うなら、一心発起すること。ね。朝参りさせてもらうということを本気で心に決めさせてもらうと、なるほど、自分が参りよるのじゃないなあ、神様から許されて参っておるんだなあ、という実感が出来てくる。ね。ですから、それが朝参りだけではなくて、日々のご用でも同じこと。お商売をする人ならお商売、農業する人なら農業、家庭の御用をさせてもらう婦人の方達は家庭の御用。
 なるほど、これは私がご飯炊きよるとじゃないなあ、私がお炊事しよるとじゃないなあ、私がお商売しよるとじゃないなあ、私がお百姓しよるとじゃないなあ、神様のおかげでさせて頂いておるんだなという、私は実感が、ね、それを確信されれる生活がお道で言う信心生活だと思うです。
 ね、だから、だいたい、その朝参りでもなさる、本気でなさろうという方達は今の体験を持っておるわけなんです。なるほど、自分で参りよるとじゃないなあ、と。けども、自分がただ、一心発起しなければならない、どうでもこうでもお参りしたいならお参りしたいという、その願いを立てなければならない。そうすすると、神様がなるほど、参らせて下さってあるんだなあ、という実感が湧いてくる。
 だから、お広前に着いた途端に、お引き寄せを頂いて有り難うございますということになって来る。私が参って来とるとじゃない。神様から引き寄せられて参って来てるということが分かる。それが、神様を信ずること。そこで、なら、そういう信心をです、なら、家庭の上に、お商売の上にです、ね、百姓なら百姓の上にです、現して行くということがお道の信心なんです。
 だから、一日、んなら、一生懸命畑に出て働かせてもろうた、という時にです、ちょうどお引き寄せを頂いて有り難うございましたというような、その、実感としてですよ、自分が働きよるとじゃないなあ、と。ね。お商売でもそうです。ところがそこに、私どもの、もう家に帰ると我情が出る、我欲が出る。
 いわゆる、もう人間心に返ってしまう。なら、またこの仕事をせんならん、というようなことでするのですから、もう、本当に疲れ果ててしもうて、お礼の段じゃない。お商売させて頂くでもそうです、させて頂くということ。その、お商売をさせて頂いておると分かる生活が、信心生活なんです。お百姓をさせて頂いておるということが分かる生活が、信心生活なんです。ね、家庭のご飯炊きをさせて頂いておる、炊事もさせて頂く、私がしよるとというところには、もう信心はないでしょうが。
 それでは、いつまで経っても、お参りの時だけは信じれても、生活の中に神様が働いて下さるはずがないじゃないですか。ね。だから、実意丁寧神信心というものをです、私どもの日常生活の中に頂かなければならないことが分かって参ります。神様を疑う(予知?余地?)がない。
 それは、お商売をさせて頂いておっても、何をさせて頂いておってもです、もう、それこそハラハラするようなところもあるかも知れません。ね。一生懸命お願いをさせて頂いておるのに、借金が増えて行くというな場合があるかも知れません。けれどもね、もう本当にこれは借金、これはさせて頂いておるんだなと実感が頂けるような借金になったら素晴らしいでしょうが。
 例えば、借金がたまって行きゃ貯まって行くほどです、締まって行くということが、実際に声のない声を聞かせてもろうて感じるならば、もう、この調子で借金が増えて行くのなら、有り難いことだと分かって来るんですよ。そすと、なら、借金も負えれるだけ、いっちょ負うちみろうちゅうごたる気になって来るとです。ほらあ、もう、素晴らしいですよ。まあ、これはちっと余談になるかも知れませんけれども、あの、挑戦に金千代という酒屋さんがありました、金千代。
 ほれはもう、(北進?)辺りにもどんどん出してました。東京の、一応東京の一流料亭(割烹?)の女中さん(仲居?)さんに金千代の前掛けをずうっと掛けさせたちゅうぐらいな華々しいお商売をした方です。朝鮮前での精米をしておられた。もう、朝鮮で頭一の金千代という、お米にも金千代と(裏に?)書いてあるし、お酒も金千代、全部金千代、と。
 当時、金千代が倒れるとね、朝鮮銀行が倒れると言われております。だから、もう朝鮮銀行が絶対倒さん。ね、借金を例えば合うということでも、このくらいに素晴らしい借金は合うようになったら良いですわね。もう、銀行が倒さん。本当に神様を実感しながら、例えば、これが難儀が例えば重なって行きよると言うなら、もう、神様が絶対倒しなさらんです、神様を信じての例えばそれが難儀であるならば。
 どんな苦労が増しても、ね、もう、それこそ信心、泣き面にハチといったようなことがありますよね、あれほど信心しよんなさってから、私ども(   )そうでした。もう、とても大坪さんの信心の真似は出けんと皆が言うぐらいな信心させてもろうた。けれども、して行けばして行くほど困った結果になったんでもんね、私の場合。けれども、私の心は、もう絶対のものなんです。
 いわゆる、今日の御理解から頂くとです、もう、その困って行けば行くほど、信心の有り難さというものは、身に感じておったです。ね。皆さんがね、私は本気で朝参りなら朝参りをさせて頂こうと、一生懸命の御取次を頂いて願わせて頂いてです、その気にならせて頂くならば、もう神様が、もうそれこそあの手この手を使うてでも参らせて下さるです。ね。
 だから初めて、なるほど神様にお許しを頂いてお参りしているんだなあ、神様のおかげで、信心が出けておるんだなということが分かります。ね。信心がない時、信心が薄い時は、とてもそんなことは出けん。とても、毎日参るてん何てん出けんと、初めからそう。それでもおかげを頂きたいから、時々参ってお願いをして、なるほど、おかげを頂くから、段々だんだん、その、信心が本格的なものになって来てです、ね、おかげを頂いておることが、また、お願いをしなければならないことが、心に感じておる心配、不安を一掃させて頂くためにです、やはり、おすがりをするということになる。
 そして、本気で信心のけいこに通わせて頂くということになってです、ね、これはそうです、お参りだけじゃないです、お供えでもそうです。ね。今度の例えば御大祭でも、どうでも普通から言えば、この人が、んなら、お米の一俵でもお供えでも出けるという生活をしておる人じゃないです。が、これだけは、どうでもと言やあ、まあ、さあ、それは本当に不思議な不思議な働きを頂いておるです。
 なるほど、自分がさせて頂くとじゃないなあ、神様がさせて頂くんだなあ、という訳です。昨日も善導寺の原さんが、もう、いよいよ宅祭りが近づいて来たが、今のようだったら、もうとても宅祭りも出けん。はあ、もう大祭でもついっぱいのことをさせて頂いたから、もう、今度は宅祭りが重荷にならせじゃったろうて私が申しました。重荷になるごたるなら、もう、宅祭りはせんがよかばの。ね。
 自分がしようと思うから、今も何もかにも切らせたことは神様が見ておいでだから、ね、神様にさせて頂くというお祭りでなかにゃほんなこっじゃなかよ、と言うて、まあ、申しましたことですけれども。なるほど、神様がさして下さる宅祭りだということをです、分からせて頂くから、初めて有り難いのです。
 そして、なら、今日の御理解に繋がる。なるほど、こちらがその気になりゃあ、神様はおかげ下さるという確信が生まれて来るです。ね、そういう、んなら、確信をです、ね、日常生活の上に現して行けと言うのです。商売と信心が分離してはならない。ね。
 お百姓をする人が、畑の中とお広前とが違うようなことであってはならない。ね。一日忙しくお使い回しを頂いた、頂き終わった時にです、ね、それこそ、神様に働かせて頂いた、神様に御用に使うて頂いたという実感が湧いて来なければ、有り難うございますになって来ない。ああ、きつかった、きつかった。神様有り難うございます、とこうなって来る。それじゃ、神様に通じるはずがない。きついはずじゃん。
 けれどもね、ちょうど朝参りを本気で思い立たせて頂く人が、朝参りが出来るということ。なるほど、神様がお引き寄せ下さらなければ出けることじゃない、神様に許されなければお参りも出けないんだということが分かる。そういう信心を家庭の上に、お商売の上に、百姓の上に、それぞれの御用の上に現して行けというのである。もう、そこにはね、ここにもそこにも、神様の声のない声を聞くだろう、神様の見えない姿をそこに拝むような感じがする。ね。
 包丁を持たせて頂くでも、ね、ご婦人の方が包丁一つ使わせて頂くでも、ね、ご飯を炊かせて頂くでも本当に使わせて頂いておる御用に、神様からおかげを頂いてさせて頂いておるということが、分かるということがね、神様と交流することになるです。そこで、まずいっちょ、その姿勢を作ること、ね、本気で。
 本気で朝参りをさせて頂こうと、一心発起すること。そして、それが神様のおかげなればこそということが分かってきたら、それを今度は応用問題に持って行かにゃいけん。自分の持ち場立場で、その信心をそのまま、自分の持ち場に持って来る。
 神様、只今から桑を持たせて頂きます。只今から、田を畑を耕させてもらいます、草を取らせてもらいます、と。どうぞよろしくお願いしますというところにです、そこには不思議な不思議な働きが始まるです。ね。そして、言うなら畑を耕し終わった時にです、もう本当に神様のおかげで、ということになるのです。
 ね、一日を終わらせて頂いてです、一日の言うなら帳面を締めくくった時にです、今日もお商売にお使い回しを頂いて有り難かったという、これがもう、ただ観念で言うのじゃなくてです、ね、朝参りのお許しを頂く、その実感が一日の締めくくりの中に出来てくるような稽古をさせて頂くところから、もう、それこそ一分一厘疑う余地のない神様。なるほど、親神様だと分からせてもらえれる信心。
 神は声もなし、形も見えず、疑えば限りなし。ね、そういう、いわば神様なのだけれども、自分がその気になって上らせて頂く、行わせて頂こうという気になるとです、ね、目には見えないけれども、神様が本当に尻も押しておって下さる、支えておって下さるような実感が体験として生まれて来るということ。ね。
 上れば上るほど、高めれば高めるほど、大丈夫じゃろうかと思うような中にあってもです、ね、上れば上るほど、これは締まって行くんだということになったら、もう、一段でも上に上って行くことが楽しゅうなって来る。ね。そういう信心をです、お互い日常家庭生活の上に現して行けれるけいこ。これは、もうだから、信心のけいこを応用問題ね、自分の持ち場でそれを応用して行こうと言うわけなのである。ね。
 そして初めて、なるほど、自分で商売しておるとじゃないなあ、自分で百姓しておるとじゃないなあ、ということが分かる時にです、ね、最後に出て来るものは、神様、今日も御用に使うて頂いて有り難うございましたと、心からお礼が言えれる心なんです。ね。そこには、また、次の生き生きとした有り難い心が頂けて参りましょう。ね。ですから、先ずは心配する心で信心せよと仰せられるところから始められて。ね。
 心配はない、不安はない、不平もなければ、不足もないといった、ないない尽くしの生活がね、出けるようなおかげを頂くことが、お道の信心だと私は思うですね。どうぞ。